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刃傷 2 [城・館・チャシ・グスク]

 本当は3月になりましたので、4月限のミュージアムの御知らせをするのですが、4月は年度
替わりのためか、展示の情報がまだ少なく、博物館への短期雇用の情報が多いです、何故だ
か1年間の雇用が多く最長5年ですが、1年毎の更新なのです。不安定な雇用です。


 それで、今回は前回の続きです、前回もかきましたが、江戸城についての脱線が続いて
ます。

 赤穂事件(忠臣蔵)は江戸時代2大事件の一つです、ちなみにもう一つは慶安の変(由井正雪
の乱)です。事件としては、こちらのほうが、幕府転覆という大事件なのに、忠臣蔵のほうが、
有名になっています。


 赤穂事件がこれほど有名になったのは赤穂浪士が切腹2日目の1703(元禄16)年2月
16日、江戸の中村座で「曙曾我夜討」が上演されました、仇討ちを取り上げた人気の演目
でした。この曾我兄弟の仇討ちは歌舞伎や浄瑠璃での創作の演目でした、この曾我物に
仮託して討ち入りを描いたわけですが、興業3日目に奉行所より上演中止を命ぜられまし
た。
 切腹直後の上演であり、話題を呼んだのは想像できます、それで幕府の忌諱にふれ
たようです。
 その後、1710(宝永3)年5月、大坂の竹本座で浄瑠璃「碁盤太平記」が上演されました、
南北朝期の騒乱を描いた軍記物語で近松門左衛門の作品です、これは高師直の懺悔
のため詰め腹を切らされた塩冶判官の家臣大星由良之介と同士四十数人が主君の恨み
を晴らすという筋書きです、これが討ち入りのモデルとなった作品として、1748(寛延元)
年8月に竹田出雲、三好松洛、並木川柳の合作の浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が大坂の
竹本座で上演されました。
 1749(寛延2)年には歌舞伎しても上演され大ヒットしました。これを機に赤穂事件は
「忠臣蔵」として広く知れ渡りました、江戸で同年2月6日に森田座で上演し人気を博して、
続いて市村座、中村座で上演されました。3月には京都では中村松兵衛座が、
大坂では12月に嵐三五郎座が上演しました。
 その後は江戸、大坂、京都だけでなく諸国の芝居小屋でも「仮名手本忠臣蔵」がが演
じられるようになりました。

 と言うわけで、赤穂事件は事実ですが、忠臣蔵は小説なので事実でない部分もあります
のであまり目くじら立てていうのはなく、謎の部分に触れてみたいと思います。


謎だと思う事柄
1. 朝廷の使者が江戸城へ来ているときに何故刃傷沙汰を起こしたのか。
2. お供がいない殿中なのに、何故カスリ傷しか与えられなかったのか。
3. 喧嘩両成敗なのに、何故吉良にはお咎めがなかったのか。
4. 浅野のほうが悪いのに、何故忠臣蔵では吉良が悪者として扱われている。
5. 半蔵門外の番町、麹町平川町は旗本が多く住んでいたのに、この近辺に20人近く
  が潜伏していて怪しまれなかったのは何故か。
6. 吉良は安全な大名小路(呉服橋内)から、本所松阪町へ移ったのか。
7. 吉良邸には上杉家から100人もの武士が常駐していたのに死者16人負傷者20人
  出ているのに赤穂浪士は数人の負傷者なのは何故か。
8. 本所松阪町からから泉岳寺までの道のりで何故浪人たちは捕らえられなかったのか。
9. 約1年間の赤穂浪士たちの衣食住の資金は。
10.江戸の町々には必ず木戸があり夜は閉鎖され木戸番がいるのに何所も引っかかって
  ないのは。

 これは江戸城とは関係のないことなのに、すぐに脱線してしまいます。
でも、赤穂事件で7冊の本で調べました、このうちちょっと以外だったのは、吉良邸が大名
小路の邸宅、本所松阪町の吉良邸を調べるために東京時代MAPで調べていたら、忠臣蔵
が載っているのに驚きましたが、吉良邸の名は載っていませんでした。

1. 何故刃傷に至ったかは本人でなければ、わからないことですが、本人は癇癪持ちだった
  ようなので、ついカーッとなってというのが妥当な考えではないでしょうか。
  しかし将軍綱吉は激怒したそうです、理由は朝廷に生母桂昌院の「従一位」への昇進
  を願いでてたので、その勅使が来ている最中に起こした事件だったので、即切腹を  申し
  付けたようです。

2. 何故カスリ傷しか与えられなかったは解明されていない謎の一つです、一対一です
  不意打ちであれば、もっと深手を与えることは可能であったのに、忠臣蔵では「この
  間の遺恨覚えたるか」と云って振り向いたところを眉間に切りつけましたと書かれている
  ものが多いのですが、これについては、朝のを後ろから羽交い絞めにして止めた梶川与
  惣兵衛頼照の書き残した「梶川氏筆記」に一部始終を書き残してあるが、これが一番史実に
  近いのでは。
下記の松の廊下のの図で①は梶川氏の立っていた場所、②は浅野が進んできて
方向、③は吉良が来た方向、④は刃傷があった場所です。
Scan.jpg
下記は梶川氏筆記からの抜粋です。
「・・・内匠殿が参られたので『私儀、今日、伝奏衆へ御台様よりの御使を勤るるのて、諸事
宜しくお頼みます』と申しました。内匠殿は『心得ました』と言って本座に変えられました。
 その後、御白書院「桜間」のほうを見ると、吉良殿が御白書院ほうからやって来られました。
そこで、坊主に吉良殿を呼び遣わし吉良殿に『その件について申し伝えるように』と話すと、
吉良さんは『承知した』とこちらにやって来られたので、私は大広間に近い方に出て角柱より6~7
間もあるところで、吉良さんと出会いお互いに立ったままで、私が、『今日、御使の時間が早く
なりました』と一言二言言ったところ、誰かが、吉良殿の後ろより『この間の遺恨覚えたるか』
と声をかけて斬りつけました。・・・」
長くなるので、この後は省略しますが、襲うのなら、梶川のいない場所つまり梶川との話が
終わってからなら果たせたのに、と思います。

3. 浅野の私怨と言われてますが、事件の後、梶川は老中・若年寄・大目付列席の席に
呼び出され尋問を受けてます、それは浅野が切りつけたとき吉良は刀に手をかけたか
否かが吟味の眼目だったがも梶川は刀に手をかけていないと答えてます。
 一方浅野は目付の多門伝八郎たちから事情聴取をうける、場所柄をわきまえずに
刃傷に及んだ理由を問われ、私的な遺恨から前後をわきまえず刃傷に及んだ。討ち損
じたことは残念だ、自分は乱心ではないとも答えた。
 浅野の事情聴取を踏まえて、今度は別の目付けが吉良に対して、浅野の言う遺恨について
説明をもとめた。コレに対して吉良は浅野から怨みを受ける覚えは自分にはないと答えた。
その結果、浅野は一方的に斬り付けたのであり、両成敗には当たらないと両成敗は適用
されなかった。
浅野が吉良を怨んでいた理由に浅野が吉良に賄賂を送らなかったので嫌がらせを教え
浅野を困らせたといわれてますが、そんなことしたら、逆に指導した吉良に責任を負う
言になりますので、これは絶対にありません。
塩の製法についても、しかりです。今でもそうですが、トップ同士で物事を決めるのではなく、
部下が交渉お膳立てします、、以外にほんとかなーとおもわれるのは、江戸家老が浅野の
奥方に横恋慕使浅野に嘘をいい吉良がいってたようにしてたのでは、何故なら浅野接吻の
後江戸家老は出奔しています。ーーこのほえが面白いかも。

4.浅野が悪いのに、吉良が悪者になっている、これは義士でなければ、忠臣蔵にならない
  からでは。当時はネットもない時代、情報は流したほうが勝ちの時代です。
  資料がないので、真実の解明は難しい。

5. 逆の発想でかえってあやはまれないのかも。

6. 下の地図を見てください。
呉服橋門付近.jpg
この地図は元禄大江戸図の復刻小地図(人文社)の呉服橋門の大名小路の一部です
門を入ってすぐの左は北町奉行所です、この門のなかはほとんどが大名屋敷、門には
門番がいます、簡単にははいれません。
この地図は赤穂事件が起こる4年前の作成ですが、吉良邸とかかれてある場所つまり
呉服橋門を入ったところに名はありません。
下はこの地図のケースです。
元禄大江戸図ス.jpg
下は東京時代MAPです、この地図にも忠臣蔵が載せてあります。
東京時代MAP.jpg
下はこの地図に載っている呉服橋門と本所松坂町の位置です。
吉良邸移転.jpg
何故安全な場所から移ったのでしょうか。

7. 上杉家から100人以上吉良家と合わせると200人近くの武士がいたのに、
  死者16人、負傷者20~40人で浪士は負傷者数名とは謎です。
  下の図は回向院横の吉良邸(本所松阪町)と討ち入りの時集まった林町の杉野
  十平次宅との位置で。
吉良邸と浪士の集合場所.jpg
このとき浪士が着ていた衣装は映画で見るような派手な
  衣装ではなく地味な火消し装束だったそうです、これだと郎党を組んでも梯子を
  持っていても怪しまれません、また山鹿流の陣太鼓を叩いたことは嘘です、討ち
  入り前に大きな音をたてていたなら相手の寝込みを襲われません。

8. 吉良討ち取り後とに裡の回向院で休憩したという話もありますが、回向院は
  かかわりを恐れて門を開けなかったそうです、また船で下ろうとしましたが、
  船頭に断られたともありますが、永代橋たもとに浪士の休憩場所の碑が
  あるそうです。下の地図を見て下さい。
吉良邸から泉岳寺まで.jpg
 ここで不思議におもっつたのは上杉は追手を出差なかったのか、これは大目付の仙石伯耆
 守へ報告、仙石はただちに老中、若年寄に届け上杉家へ追撃禁止の命が出たそうです。

9. 1年半以上どうして?疑問ですが、書かれている本が見つかりませんでした。

10. 当時町々には木戸があり卯刻(午前6時)から酉刻(午後6時) までしか開いて
   いません、何故通れたのでしょうか。

 恐ろしいことです、フイクションであってもそれが事実のように思われることです。
中国、韓国などが歴史認識と云っている、何故日本は黙っいるのか、これだと
忠臣蔵のように日本が吉良になってしまいます。
 NHKの大河ドラマも最近は創作が多すぎます、NHKもクレームが多くなってきたので、
テロップで言い訳をしています。

 脱線が多すぎ、本題の江戸城のほうがかなり遅れてますが、謎解きをやってる
ほうが、楽しく、疑問が出てくる毎にそれてしまうので、目的地がますます遠くなって
しまいます。




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