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徳川三代将軍 [城・館・チャシ・グスク]

 以前「江戸城の天守」を書きましたとき元和度天守の位置がはっきりしないとかきました。
 資料が少ないのです、元和度の天守は秀忠によって元和9年に築造されています。
そのとき梅林坂の忠長邸が築造の妨げとなるといって忠長を別の場所に移されて
います。榊原忠次は「御当家紀年録」でその経過を淡々と記録にとどめ、梅林坂は
詳しく話すことが出来なかった゜ようです、そして忠次は表に出すことを禁じたので
忠次の死後120年経て幕府に献上されました。
 下の年表は家光・忠長のものです。
Scan.jpg
元和9年と言うと家光が三代将軍になった年です、本丸は将軍の居館です、西の丸
には秀忠がの居館だったので他へ移されたとおもいます。
その後忠長は寛永2年には駿河・遠江55万石、そして、大納言を昇任していますが、
於江の没後には蟄居
そして秀忠の没後は改易
そして自害と終焉を迎えたかに思われましたが、43年もの間、墓石の建立も
許されませんでした。

家光の墓所は
日光 輪王寺ですが、家康以外で日光にあるのは家光だけです。


日光山 輪王寺



忠長の墓所
高崎 大信寺


大信寺



秀忠・於江の墓所
芝 増上寺


増上寺



春日局の墓所
麟祥院


春日局の墓



この時代は秀忠、家光について、逆らうことは絶対に出来ませんので、相手方が
必ず悪くいわれるので、史実がどこまで、立証されるかは、わかりません。



これはおまけです。
下のブロクは2011-05-29のN鳥氏のブログですが、彼はプライドが高いので、半月後
このブログの間違いを指摘し来て頂いている方に間違いを報告したほうがいいですよ
とコメントしました。何故半月前かと言うと半月前までさかのぼってみる方はいないだろう
と彼のプライドを傷つけないようにしました。
下がそのプログです。
江の墓3.jpg
なにが間違っているかと言うと、
崇源院は江のことです。
供養塔です。
と書いていながらソノ後
江の墓の隣には春日局と徳川忠長の墓もあります。
於江は将軍の御台所です、徳川将軍、御台所は家康・家光・慶喜以外は
全て、上野 寛永寺か芝 増上寺です。
ちなみに、家康、家光は日光東照宮で慶喜谷中霊園です。
このほかにも
忠長は江の次男です。
長男は三代将軍家光で・・・・。
これも間違いです、長男は早世したので、家光は次男です。

この間違いを指摘しましたが、無視されました、ので今度は更新されたプログに
再指摘しましたら、普通だったらお礼を言われるのに、彼は、直しておきましたから。
と言うコメントでした。
 これだけ見ると私の間違いを彼に直してもらったように思われるしまた来て頂いて
方にはまちがいの訂正コメントはありません。当時の彼のブログの城郭・歴史は
間違いだらけでしたが、指摘するのもばかばかしくなりその後はやめました。



 秀忠自身も後継者争いで二代めを争った秀忠の兄結城秀康がいたが
死去したので三代目は家光にと世間で言われているように、家光x忠長は
カムフラージュではなかったのか。結城秀康は没したが、秀康の嫡男松平
忠直がいる、忠直は大坂夏の陣で真田幸村を討ち取るなどの活躍があった
ので、家光将軍になる5ケ月前隠居させ嫡男光長に譲るよう命じた、つまり
これは改易だった。つまり争いの目は摘むことによって、江戸幕府の権力の
確立でしょうか。

 
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