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犬公方・五代将軍 徳川綱吉 [城・館・チャシ・グスク]

 江戸城の史料を集めていると、色々と面白い事が集まります。小説にするような話、
お城のことより面白いので、脱線が続く日々です。

 今までに、15代将軍の死因・殿中の刃傷・3大仇討ち、など城に関係のないことを
書きました。

 今回は5代将軍綱吉についてです。
 何時の世も時の権力者の都合の悪いことは、公の史料には書かれてなく、○○家文書
などに、遠まわし的にかかれてあることがあります。でもそのほうが史実に近いかもしれ
ません。

 以前書いた江戸城の天守にしても、2代目天守の元和の天守についてもあいまいで
梅林坂近くの忠長邸が天守建造の邪魔だといって本丸から追い出していますが、元和
の江戸城図がないので、はっきりしませんし、慶長の天守(富士見多聞付近)と寛永の
天守(現在ある天守台の位置)の中間あたりにあったと、書かれてあるのもあります。

 ので史料から真実を見つけられないことのほうが、多いと思われます。

 何故綱吉を取り上げたかと言うと、問題が多かったのです。
1. 5代将軍になったいきさつ。
2. 跡継の件で水戸光圀との確執
3. 生類憐れみの令
4. 松の廊下刃傷事件
5. 生前での生母桂昌院への官位の授受
6. 武家諸法度の改正
7. 湯島聖堂での自らの講義

と話題の多かったお方だったので、深堀してしまいました。

 綱吉が将軍になったのは、運と老中堀田正俊のおかげでした。
 長兄家綱は11歳で将軍になりましたので、そして政務は重臣にまかせていました、
病弱のためか表にはほとんど出てきませんでした、家光には子どもは5男1女いましたが、
名前は3人だけしか出てきていませんので、多分早世だと思われます。
下の系図を見て下さい。
Scan.jpg

 長兄の家綱は4代将軍、次兄綱重は甲府藩、綱重は館林藩となりました
が家綱には跡継がいません、病弱な家綱より次兄綱重が死去しました。
 時の大老酒井忠清は宮将軍をと、111代天皇の子有栖川宮幸仁親王を将軍に迎え
ようとしていました、がこれに異を唱えたのは老中堀田正俊でした、正俊は病床の家綱に
弟の綱吉をと呼び出し、跡継に指名しました。

 将軍となった綱吉は酒井を解任し、堀田を大老にしました。
 外から見ていると兄の跡を弟が継いだのですから、自然のようにみえますが、重臣たちの
権力争いに巻き込まれた一人です。


 跡継問題は、6代将軍の時にも起きています。
 綱吉には1男1女の子がいましたが、徳松は5歳で死去しています、姫 鶴姫は紀州
徳川綱教に嫁ぎました、綱吉は綱教を6代将軍にしようとしましたが、これに異を唱えた
のが水戸光圀です、これで光圀との対立が強くなりました。
 ところが、鶴姫が死去したためこの話は消えて次兄綱重の子綱とよをするのが筋だ
と云ってた光圀の言うとおりになりました。
 綱とよは名を家宣と改め、江戸城にしの丸に入り、綱吉の死去によって6代目将軍に
なりました。

 綱吉の死亡には一般的にははしかによる窒息死と言われてますが、他にも諸説あり
ます。
 御奥廊下に歴代の将軍の位牌がある、御仏の間と宇治の間というのがあります。
下図参照
Scan-1_edited-1.jpg

 5代将軍綱吉の時代は、御台所信子(鷹司教平の娘)の御座の間でした、この御座の間
で信子に綱吉が殺されたと言う説もあります。
 多分このとき壁や襖に血が飛び散ったのではないでしょうか、襖、壁は全て宇治の茶摘
の絵に張替えられ、ここは宇治の間となり、開かずの間になり、御座の間は御仏の間の
奥になったそうです。
大奥図.jpg
大奥の図です、矢印の位置が宇治の間です。

 このほかにも怪談噺もありますが真実はわかりません。

 綱吉は中々の勉強家だったこともあって、光圀とは仲がよかったそうですが、徳松の死で
僧に尋ねたら生前の殺生によるものだと聞き、生類憐れみの令をだしました、今の時代で
したら動物保護で受け入れられたかもしれませんが、当時は不評でした、コレについて、
異を唱えていたのが、光圀です、光圀は水戸家の領内で犬狩りをし、その毛皮を綱吉に
送ったという逸話もあります。


 元禄14(1701)年正月、綱吉は晴れやかな気持ちで向かえました。
 それは目の上のこぶ光圀が12月12日に死去したからです、これで物事が自分の思い
通りに運べるようになったからです。

 このとき綱吉は生母桂昌院に従一位を贈ることでした、綱吉は吉良義央に、生前に
従一位は前例のないことを天皇家に話、3月11日には勅使が江戸に着き、予定通り
翌日から行事が始まり、14日は勅使に会う待ちに待った日でした。

 この時「松の廊下の刃傷事件」が起こってしまいました。
 綱吉はこのことを聞き、怒り心頭です、浅野に即日切腹を申し渡しました。が、赤穂浪士
の吉良邸討ち入りについては、忠臣だと褒めています。
 

 このほかにも、「武家諸法度」の第一条を改めてます。
旧 「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」    を
新 「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」
と、忠孝、礼儀を重んじろと、今で言う品格を持てといっています。

 また、自ら幕府学問所の湯島聖堂に行き、講義をしていたそうです。
この学問所は後の昌平坂学問所です。

また中野に「犬屋敷跡」があります。

 



これから先は前にも頂いているミュージアムの情報の2月限のものです。
昨年の10月からはお断りしていますので、それ以前に頂いたものだけです。


特別展
「立花宗茂と柳川の武士たち」
立花宗茂.jpg
場所 柳川古文書館
    立花家史料館
期日 12月9日~2月4日


立花家史料館





「合戦絵図の世界~語り継がれる戦国の「記憶」~」
合戦絵図の世界.jpg
場所 臼杵市歴史資料館
期日 12月6日~2月19日


臼杵市歴史資料館





「ボストン美術館の至宝」
ボストン美術館の至宝.jpg
場所 神戸市立博物館
期日 10月28日~2月4日


神戸市立博物館





「色ガラス芸術のパイオニア岩田藤七、久利」
色ガラス芸術.jpg
場所 新宿歴史博物館
期日 12月9日~2月25日


新宿歴史博物館




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